第18話 優先順位 H₂O(g)→H₂O(l)
砂漠の中心部。地平線の向こうに見えた馬車に近づくと、そこには一家が立ち往生していた。
御者と思われる男性、そして両親と小さな娘の4人。馬車の車輪は完全に外れており、修理は不可能に見えた。
彼らは疲弊しきった様子で、KENZOたちに気づくと、わずかに希望の光が目に宿った。
警戒しながらも、KENZOたちは馬車に近づいた。
砂漠の真ん中で立ち往生するということは、命に関わる。
話を聞く必要がある。
状況を聞き終えたYUKIは、無意識に計算を始めていた。
現在の水残量は52L。自分たち3人で残り3日間を過ごすには36Lが必要。余裕は16L。
4人家族に水を分けるとしたら、1日分で16L。ちょうど余裕分と同じだ。
だけど馬車ではなく徒歩で行くとなると3日はかかってしまう。
頭の中で数字が駆け巡る。リスクの計算、予備の必要性。
エフィアは迷わず「助けましょう」と言った。KENZOも「やるしかねえだろ」という顔をしている。
二人には迷いがない。目の前で困っている人がいれば、助ける。それだけだ。
でも、自分は違う。
YUKIは自分の思考に気づいて、わずかに息を呑んだ。
助けたいと思っている。心からそう思っている。でも、その前に計算が来てしまう。
科学者として、リスクを評価するのは当然のことだ。合理的な判断だ。
でも、この優先順位は...本当に正しいのだろうか?
もし、水を確保する方法が見つからなかったら。
なってみないとわからないけど、困難に直面すると予想される。
その可能性が、YUKIの胸に重く沈んだ。
日が沈み、砂漠に夜が訪れた。
気温は急激に下がり始め、昼間の灼熱が嘘のように冷たい空気が肌を刺す。
野営の準備を終え、全員が焚き火を囲んでいる中、YUKIは一人考え込んでいた。
水が足りない。4人家族を助けるには、どうしても水が必要だ。
砂漠の空気は乾燥している。しかし、夜は気温が下がる。ということは...
「結露」が起きる可能性がある。
大気中の水蒸気は、温度が下がると液体に変わる。露点温度以下になれば、水滴が生まれる。
でも、砂漠の空気は極端に乾燥している。通常の結露では、ほんのわずかな量しか得られない。
YUKIは立ち上がり、エフィアのもとへ向かった。
「エフィア、ちょっといい?試したいことがあるの」
エフィアは空間魔法を展開した。透明な球体が彼女の前方に浮かぶ。
「この空間の気温を、急激に下げてみて」
エフィアが集中すると、空間が一瞬白く曇った。空気中の水蒸気が冷やされ、結露が起きたのだ。
しかし、次の瞬間には元に戻ってしまった。わずかに生まれた水滴が、すぐに蒸発してしまう。
「やっぱりダメか...」
YUKIは唇を噛んだ。気温を下げるだけでは不十分だ。
水分子を「捕まえる」方法が必要だ。
ふと、研究室で見たMOF材料のことを思い出した。
金属有機構造体。多孔質で、水分子を選択的に吸着する素材。
細孔の中に水分子が入り込み、温度や圧力の変化で放出される。
空間魔法で、それと似たようなことができないだろうか?
「エフィア、もう一度お願い。今度は気温を下げるんじゃなくて...空間自体を収縮させてみて」
「収縮?」
「そう。空間を小さく圧縮するの。水分子を押し込めるように」
エフィアは目を閉じ、再び空間魔法を展開した。
今度は、ゆっくりと空間が小さくなっていく。
透明な球体が、徐々に縮んでいく。
そして──
空間の境界から、水が溢れ出した。
まるでスポンジを絞るように、小さくなった空間から水滴が滴り落ちる。
最初は数滴だったが、徐々に量が増えていく。
エフィアが集中を続けると、水は途切れることなく流れ続けた。
「出てる...水が出てる!」
KENZOが駆け寄り、容器を置いて水を受け止める。
ぬるリンψがスキャンを開始する。
「相対湿度100%、水飽和状態、選択的吸着現象...MOF材料ニ類似シタメカニズム?」
YUKIは息を呑んだ。
「そうかもしれない...空間魔法が、水分子だけを捕まえて放出している」
数時間の作業で、約20Lの水を確保することができた。
これで、4人家族を助けても大丈夫だ。
YUKIは安堵のため息をついた。
しかし、その安堵の中に、わずかな苦味が混じっていた。
knowledge of マメ
MOF材料と水の取り出し - Metal-Organic Frameworks for Water Harvesting
MOF(Metal-Organic Framework)材料とは:
• 金属イオンと有機配位子が結合した多孔質材料
• 非常に大きな表面積(1gあたり2000m²以上、テニスコート約半面分)
• 分子サイズの細孔を持ち、特定の分子を選択的に吸着可能
• 結晶性の構造を持ち、細孔のサイズや形状を設計できる
水分子の吸着メカニズム:
• H₂O分子のサイズ(約0.28nm)と極性を利用
• 細孔内で水分子が吸着サイト(金属イオンや有機配位子)に結合
• 温度上昇や圧力変化で水分子を放出可能
• 他の気体分子(N₂、O₂など)は細孔を通過し、H₂Oのみを捕獲
砂漠での水分収集への応用:
• 夜間の低温で空気中の水蒸気を吸着
• 昼間の太陽光で加熱し、吸着した水を液体として放出
• 電力不要で持続可能な水供給システム
相変化の原理:
• H₂O(g) → H₂O(l):気体から液体への相転移
• 露点温度以下で結露が発生
• 圧力増加でも液化が促進される(圧縮効果)
空気中の水蒸気を液体に変える技術は、水不足に悩む地域の希望となる