18話 番外編② 朝のコーヒー P∝1/V




砂漠の稜線が、朝焼けに照らされて金色に輝いている頃、エフィアは静かに目を覚ました。
淡い光が、夜空をゆっくりと明るく染めていく。
まだKENZOもYUKIも眠っていて、穏やかな寝息が聞こえてくる。

エフィアは毛布をそっとたたみ、背伸びをした。
空気はひんやりとしていて、砂漠の夜の冷気がまだ残っていた。

「...コーヒーが飲みたいわね」

砂漠を越える前にドゥーンの街で買っておいたコーヒー豆。
長い旅路の中で、飲める機会を窺っていた。
エフィアは布袋から豆を取り出し、手の平に数粒乗せて香りを確かめた。
深く焙煎された豆からは、仄かに甘い香ばしさが漂う。

「さて、どうやって淹れようかしら」

手元にはコーヒー豆と、空の小さな陶器のカップだけ。
本来なら火を起こして湯を沸かし、豆を挽いて...という手順が必要だ。
でも今は、もっと簡単な方法がある。

エフィアは両手を静かに合わせ、魔力を集中させた。
まずは水。空間の隙間から微細な水分子を集め、形を整える。
昨夜YUKIから空気中の水を「捕まえて」集め、水を引き出す技術。
昨夜、砂漠で何度も練習した技だ。乾いた空気の中からでも、水を取り出せるようになった。

手の平の上に、透明な水の球が浮かび上がった。
およそカップ一杯分。

「次は、温度ね」

エフィアは空間魔法を応用して、水の球を包む空間領域を微細に振動させる。
分子運動を活性化させることで、熱を生み出す。
Q = mc∆T―熱量は質量と温度変化に比例する。
YUKIに教えてもらった理論が、魔法の制御に役立つ。

水の球がゆっくりと湯気を立て始めた。
沸騰手前、90度ぐらいだろうか。

エフィアはコーヒー豆を数粒、湯の球の中に落とした。
豆が湯の中で踊るように浮かぶ。

「お湯はできた、あとはコーヒー豆ね・・」

エフィアは指先に集中し、豆の周囲の空間を微細に「刻む」。
空間の鋭利な刃が豆の表面を削ぎ、内部の成分を露出させる。
粉砕せずとも、空間の切断で豆の表層を剥がしていく。

そして次に―圧縮。

豆の周囲の空間を狭め、密度を高める。
P ∝ 1/V―圧力は体積に反比例する。
空間を圧縮すれば、その分だけ圧力が上がる。
高い圧力下では、豆の内部の風味成分が効率よく抽出される。

湯が次第に褐色に染まり始めた。
コーヒーの香りが部屋の中にふわりと広がる。
苦みと酸味、そしてかすかな甘さが混じり合った、複雑で芳醇な香り。

「完成、ね」

エフィアは褐色の液体を陶器のカップに注ぎ込んだ。
豆の粒は空間魔法でそっと取り除き、透明なコーヒーだけが残る。
カップを両手で包み込むと、温かな熱がじんわりと手の平に伝わってきた。

窓辺に座り直し、コーヒーをゆっくりと口に運ぶ。
最初の一口が舌の上に広がった瞬間、エフィアは思わず目を細めた。

「...おいしい」

深い苦みの後に、ほのかな甘みが追いかけてくる。
心地よい温もりが喉を通り、体の芯まで染み渡っていく。

エフィアはカップを持ったまま、景色を眺めた。
遠くの砂丘は朝霧に包まれて、幻想的な輪郭を描いている。

――どれくらい経ったのだろう。

クバヨランの村の牧場で、毎日結界の維持魔法をかけていた日々。
ロッジ夫妻の優しさに包まれて、静かで穏やかな暮らし。
それはそれで、幸せな時間だった。

でも、どこか物足りなさを感じていたのも事実だ。
自分の空間魔法は、本当にこれだけの使い道しかないのだろうか。
もっと誰かの役に立てる方法があるのではないか。
そんな思いが、心の奥底にずっとあった。

そこに現れたのが、KENZOとYUKI。
地球という遠い世界から来た、まったく異なる価値観を持った二人。

二人と過ごすうちに、エフィアの中で何かが変わり始めた。

空間魔法で水を取り出せば、砂漠で困っている人の役に立てた
そういえば、牛糞で燃料をつくったりもしたわね

今まで「結界の魔法」として当たり前に使っていたものが、人の助けになるなんて。

――私の魔法が、誰かの役に立っている。

その実感が、エフィアの胸を温かくした。
牧場で結界を張っていた時には感じなかった、もっと直接的な、確かな手応え。

エフィアはコーヒーをもう一口飲んだ。
少し冷めかけたコーヒーは、それでもまだ十分に温かく、心地よかった。

「これからどうしたいんだろう、私は」

独り言のようにつぶやく。

帝都トリアスティに着けば、もっと真言の書のことがわかるかもしれない。
YUKIとKENZOに出会わなければ、おそらく旅には出ていなかっただろう。

エフィアはカップを両手で包み直した。
温もりが、手の平から全身に広がっていくような気がした。

新しい出会い。
新しい景色。
新しい挑戦。

牧場での静かな日々も好きだったけれど、今はこの旅が楽しい。

朝日がさらに高く昇り、砂漠全体を黄金色に染め始めた。

エフィアはコーヒーの最後の一口を飲み干した。
カップの底に残ったわずかな熱が、唇に優しく触れる。

「..おいしい..ありがとう」

誰に言うでもなく、エフィアは静かにつぶやいた。

今日も、新しい一日が始まろうとしている。
エフィアは立ち上がり、カップそっと荷台に置いた。

「さて、皆にもコーヒーを淹れてあげようかしら」

旅は、まだ始まったばかりだ。

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コーヒー抽出と圧力の科学 - Coffee Extraction & Pressure

圧力と抽出効率:
• コーヒーの抽出は「溶解と拡散」の物理現象
• 圧力が高いほど、豆の内部成分が効率よく抽出される
• P ∝ 1/V(圧力は体積に反比例)― ボイルの法則の応用
• エスプレッソマシンは約9気圧(約900 kPa)で抽出を行う
• 高圧下では、油性成分(コーヒーオイル)も抽出され、濃厚な味わいになる

コーヒーの主要成分:
• カフェイン:C₈H₁₀N₄O₂(覚醒作用、苦味成分)
• クロロゲン酸:C₁₆H₁₈O₉(抗酸化作用、酸味と苦味)
• トリゴネリン:C₇H₇NO₂(焙煎で香気成分に変化)
• 糖類・有機酸:甘みと酸味のバランスを生み出す

抽出の最適温度:
• 最適抽出温度:90-96°C(沸騰直前)
• 高すぎると苦味・雑味が出る(タンニンの過剰抽出)
• 低すぎると風味成分が十分に抽出されない
• Q = mc∆T(熱量 = 質量 × 比熱 × 温度変化)

エフィアの空間魔法は、「空間圧縮による圧力制御」と「空間加熱による温度制御」を同時に実現した、まさに理想的なコーヒー抽出法

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